映画「すみっコぐらし」はあまりに救いがないように見えた

諸事情により、3ヶ月くらいアホみたいに休みなく働いていたんだけど、それが一段落つきかけて精神的な疲れを自覚した私は簡便な癒やしを求めてTwitterでちょっと話題になってた「すみっコぐらし」の映画を見に行った。
そもそもすみっコぐらしのことはあんまり知らない状態で行った。ぬいぐるみ売ってるのを見たことがある程度。
かわいいだけの映画かと思ったら話の出来が良くて泣いちゃう、みたいな前評判だったから、そういうつもりで行ったんだけど全然違ってて、めっちゃ怖いのは私だけなのか…?と思ったので、ずいぶん書いていなかったブログを引っ張り出してきてまで感想をこうして書いてる。



この先はネタバレしかないし、偏った見方をしていると思うので、そう思って読んでほしいし、一気に書いたから読みにくいと思う。ごめんなさい。




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ひよこが、絵本の世界から出られないのはなぜなのか。
もちろん絵本の世界の住人だから。それは一見、「異界の住人だから」のように解釈できる。異界の素材で出来ているものだから境界を超えられないのだ、と見える。おばけの黄色い花も、すみっコたちのピンクの花も、絵本の世界の素材でできているから境界を超えられない。
でも、すみっコたちは異界の素材でできているおにぎりを食べてしまっている。異界の存在である鬼が作った、異界おにぎりを食べた。
異界業界(?)では、異界の食べ物を食べると元いた世界に帰ることはできない。いわゆる黄泉戸喫で、古事記はもちろん遠野物語とかギリシャ神話にもあったような気がする。異界の素材を食べたら食べた人も異界の存在になる。食べたものが体を作る。
異界業界基準でいくと、すみっコたちもまた異界おにぎりを食べた時点で異界の存在になっているはず。しかし、すみっコたちは異界素材になっていても境界を超えられた。つまり、境界を超えられるのかどうかは、体の組成の違いではない。すみっコたちが絵本の世界から出られたのは「絵本の世界の住人でないから」だ。ひよこが絵本の世界から出られないのは、絵本の世界の素材でできているからではなく「絵本の世界の住人だから」だ。判定基準は、出生だ。

ねとらぼの映画「すみっコぐらし」の紹介記事(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1911/14/news109.html)に、次のように書いてあった。
実は、これらのキャラクターは「カフェに行ってもできるだけ隅っこの席を確保したい」という、“謙虚”や“控えめ”や“主張しない”といった日本人の国民性に合わせたのコンセプトになっている。(原文ママ)
すみっコぐらしが日本人の国民性に合わせて作ってあるなら、そしてキャラクターに共感するなら、舞台設定や場面設定もまた日本の現実を反映している。そこで「はじめに生み出された世界からは出られない」という結果に終わるひよこは、親の経済力と子供の学歴に相関があることとか、格差が固定化していることとか、そういうことを連想しちゃうんだけど〜〜〜〜〜!
それに対してすみっコたちは、たしかに彼らの生きる世界ではのけものにされる(とんかつの端っことか)ような生活しづらさを感じているものの、絵本の世界に対しては絵を描きこむことで介入することができる。つまり限定的ながらも力を持っていて、制度にアクセスできる側の世界に住んでいる。権力者ではないんだけど、たとえば選挙権があるとか、知識があるとか、インターネットでの情報の扱い方が分かるとか、そういうなんらかの手段を持っている側みたいな感じを連想する。
その点、絵本の世界の住人はそうではない。自分たちで自分たちの世界を変えられると思っていなかった。役割に従って物語を進めることが生きることだった。だから、しろくまを押して川に連れて行ったり、食べられるのを怖がらなかったとんかつに対して狼狽する。異邦人であるすみっコたちによって絵本の世界の住人は変化するが、彼ら自身だけではおそらく変化はなかった。
そんな中、ひよこは異端だった。自分の感情のために、役割を超えて他の物語に入っていく。異邦人であるすみっコに加えて、異端児であるひよこが絵本の世界の変革には必要だった。結果、絵本の世界はめちゃくちゃに混じり合って混沌とし、自分たちの感情によって行動する存在が増える。でも、その変革は絵本の世界を超えることはできなかった。ひよこは出たくても生まれた世界から出ることは出来ず、絵本の世界の外のすみっコたちの世界はいつもと同じ。違うのはすみっコたちが絵本の世界を知ったことだけ。
すみっコたちの世界と絵本の世界の力関係は一方通行で、絵本の世界は自力では変化することはできなくて、絵本の世界に生まれたら意志があってもそこを出ることはできない。

すみっコたちはすみっコたちで、ぺんぎん?の敵とされているアーム、あれなんなんだろ、管理者に管理されてる感がある。ぺんぎん?も、他のすみっコたちもそれを受け入れている。映画のストーリーをすすめるためにアームが介入していたので、すみっコたちよりも権限を多く持った存在なんだと思う。絵本の世界との境界の大きさとかタイミングとか、ひよこがグリッチ状態になって消えそうな描写とかも、よくわからなくて不安だった。管理者…?

そういうわけで、映画「すみっコぐらし」は、固定化した格差社会における住人の諦念を感じて泣ける映画だった。怖かった。そういう意味では良く出来てるかもしれない。でも子供向けに見せるのにはあまりに悲観的じゃない…?


おばけが自由に行動していて、おばけを見るときはにこにこできた。おばけ推しになった。以上です。