文学部がいるとかいらないとか

母校の大学の入試対策のときに、「文学部の存在意義とはなにか答えよ」みたいな論文を書く過去問をして、そのとき自分は「世界の最後の砦としての文学部」を答えにした。世界が絶望したときに必要なのは死に向かう痛みを和らげるための物語または思想であり、そのときに機能すべきは哲学、文学、史学など思想や物語とその解釈についての学問を学んだ人である、のようなこと。
まあ実際は世界が絶望したときなんて大げさでありえないし、文学部に入るっていうのは趣味の問題だと思いながら書いた。就職活動を始めたら金を稼ぐという点での文学部の価値の無さも実感したし、入社して半年で辞めた仕事でも大学で学んだことは役に立たなかったし、実家に帰ってまたいくつか仕事を探して一応受かった仕事でも別に役立っていない。
でもさすがに、大学生だったころは物語の解釈の能力が高かったなあと思う。卒業してからろくに本を読んでいなくて、読まなさ過ぎて読めなくなっていたところ今すこしずつ読み始めたんだけれど、解釈がほんとうにできない。ハウツー本とか実用書とか新書とかそういう内容を明確に伝えることが目的の文章は理解力の問題だからわりと単純だけど、解釈は観察したり暗黙のルールを知ったり例外の多い定石を試したり最後はセンスだったりして、師範が必要でトレーニングを続けないとなまってしまう、案外とスポーツのような技術で、その技術を学べるように文学部があるんだなあと最近は考えている。だからってそれがなんの役に立つのかよくわからないのは変わらないけど。
そういえばここ数年間は世の中が物語偏重に感じられるんだけど(ケータイ小説とか完全に物語の受容に特化してるし原作のある物語を他の媒体で再構成するのが多いのも物語だけを吸い出す傾向だし)、もしかして世界が絶望しているんだろうか。