ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ/高橋源一郎

このところずっと本が読めなくて、どのくらいずっとかというとゆうに半年は超えるくらいにずっとだった。ここ2ヶ月くらいでだんだんと読みたくなって雑誌から入ってみたり本棚の積読から選んだりしていたけれど、進まない。E.H.カー「歴史とは何か」は三分の一くらい進んだけど伊坂幸太郎「アヒルと鴨のコインロッカー」は1ページも無理だった。伊坂はちょっと読書好きな中学生も読んでる作家じゃなかったのか。読みやすく面白いということなんじゃないのか。ぐぐう。

それで、地元の図書館が夜8時半まで開いているし行こう、という話に昨日なったときも読みたい本が見つかることは期待していなかったのだけど、帰るときには5冊持っていた。

5冊のうち最初に読み始めた本が高橋源一郎「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」で、「ぐぐう」ってなに。すらすら読んだ。


 以下抜き書き:
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テレビの中では戦争がはじまっていた。飛行機が砂漠に爆弾を落としていた。オッベルの見る限り、画面に映るのは砂漠ばかりで、なぜそんなところに爆弾を落とそうとするのか、わからなかった。
砂漠の真ん中に大輪の花がいくつも咲いた。
戦争にも飽きたので、オッベルはチャンネルを替えた。今度は、バスに乗って若い男や女が、あちこち移動する番組をやっていた。(「オッベルと象」)
「その…ネットワークは、なんでも仲介してくれるのか?」
「もちろん!そうでなければ、ネットワークの存在理由がありませんからね」
「神もか?」
「お客さま、それならわたしでも仲介できますよ」
「ほんものを?」
「えっ、ほんものの必要があるんですか!」(「オッベルと象」)
そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人というよりは白熊といった方がいいような、いや、白熊というよりは雪狐と云った方がいいようなすてきにもくもくした毛皮を着た、いや、着たというよりは毛皮で皮ができてるというた方がいいような、ものが変な仮面をかぶったりえり巻を眼まで上げたりしてまっ白ないきをふうふう吐きながら大きなピストルをみんな握って車室の中にはいって来ました。(「氷河鼠の毛皮」)
「耐えられないのじゃない?」ぼくは正直に答えた。
「 わたしがかい?」
「人間が、人間であることに耐えられるとは思えない」
「なるほど。それは正論であるのかもしれない。また、そのように考える人も多い。だが、それは買いかぶりというものだ。簡単にいうなら、人間はあまり考えないようにしている。あらゆることをだ」
「能力を使わないということ?」
「そうだ」
「では、能力を使わずに、なにをするの?」
「多くの人はなにもしない」(「グスコーブドリの伝記」)
『読む』のにふさわしいなにかを見つける以上に難しいことを、わたしは知らないよ(「グスコーブドリの伝記」)
そこは、それからずっと後になって、「学級崩壊」だの「引きこもり」だの「イジメ」だの「キレる小学生」だの「日教組による教育の荒廃」だの「戦後教育の欺瞞」だの「権利ばっかり主張させたので義務を忘れた子どもたちが生まれた」といった事柄の起源となった教室なのだけれど、その当事者であるわたしの目から見れば、西日が射す、なにか熱っぽい雰囲気の漂う、でもけだるく寂しい場所にすぎなかった。(「プリオシン海岸」)
なぜなら、夢は一つ一つの個体が見るものではなく、その上に存在するものが見るものだからだ。(「プリオシン海岸」)
『贈り物』なんのためにするのかね。それを贈って、なにか自分に役立てるためかね?そんなものは『贈り物』とはいわない。『賄賂』というのさ。『贈り物』は、自分以外の誰かのために贈るものだろう。(「水仙月の四日」)
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抜き書きを眺めると中二っぽいなあ。 抜き書きをどこかに残したいと思うようになったのはTumblrのせいなんだろうか。