科挙―中国の試験地獄/宮崎市定

中国に興味があるとかそんなんではなく、特に理由なく手にとって読んだ。
そしたら割と軽快な文体で、面白い読み物だった。
科挙に合格するとか奇跡。東京大学医学部合格の確率と東京芸大合格の確率を足して30で割るようなかんじかと思う(イメージ)。しかしそんな科挙に挑む人はいっぱいいて、いっぱいいるからいろんなことが起こって、現代が傍から見られる状況なので楽しめる。これが、自分の現状を投影して読まなきゃいけない時代だと涙なしには読めないだろうなあ。

Amazonを見てみたら宮崎市定さんって明治の人らしくてびっくりしたのでWikipediaでも探してしまった。まさか明治に書かれたのでは、と思ったけどさすがに昭和でした。

抜き書き:
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中国では官吏登用のことを選挙というが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代になって成立した。(p4)
先生が、
学而時習之 学んで時に之を習う
と読むと、生徒がそのあとについて、シエ・アル・シー・シー・ツと大きな声をはりあげる。次に先が、
不亦説乎 また悦ばしからずや
と読むと、生徒も、プー・イー・ユエ・フと読んで、これを何べんとなく繰りかえす。しかし実際のところ、生徒は少しも悦ばしくないので、ついわき見をしたり、袖のなかで玩具をもてあそんだりしているのが見つかると、先生は遠慮なく叱ったり叩いたりする。先生は戒尺という扇子のような形のものをもっていて、これで生徒の掌や腿をたたく権利がある。正に、
教不厳 教えて厳ならざるは
師之惰 師の怠りなり
であって、厳格な教師ほどよいとされる。(p13)
中国では学問は同時に実践である。実践という意味は家庭内において、また社会に出て、大人として行動する時に恥ずかしからぬ行儀作法を身につけていることが第一に要求されるのである。そこで長上や同輩に対するお辞儀の仕方や敬語の使い方などを、初等教育のうちから先生に教え込まれる。ただ今日から見て物足りないのは、集団生活における社会的な紳士としての訓練がおろそかになっている点であろう。だから清朝の末年に、堂々たる外交官になってヨーロッパへ渡ったのは良いが、公の席で手鼻をかんで、西洋人をびっくりさせたような逸話の主人公も現れる。(p14)
八歳で入学して十五歳になるまでには、ひと通りの古典教育を終了するのが普通である(p15)
学校試は童試といわれるように、もともとは童子、つまり十四歳以前のものを対象に行う試験なので、それに対しては平易な問題を出し、また採点にも手心を加える。
ところが、そこへすでに冠をつけた老童生が割り込んでくると、それに対してはことさらに難問題を出して戸惑わせたり、あるいは辛い点をつけたりして差別待遇をする。それではたまらないと受験する童生の方は年齢をごまかして若く書き込む。ひどいのになると、四十歳、五十歳になっても、まだ元服前の十四歳だと称して受験する。黒々とした鬚があっては邪魔だから、きれいに剃り落として子どもに化けるのである。ほとんど皆が皆と言って良いほど年齢をいつわるので、受け付ける方でも、どこを境にして法規を励行していいか分からないので、鬚さえなければどんなに顔に皺がよっていても見逃してくれる。かくして四、五十歳の老童生までが十四歳以下の童子で通るのである。(p21)
貧乏人の入学は始めから無理なことであり、社会上に貧富による階級の区分が自然に成立して、金持はいよいよ富み、貧乏人はいつまでも下積みに甘んじていなければならないのである。(p46)
政府では受験者の苦労を考慮して一年で最も気候の良い時節を選んだのである。(p57)
閻魔さまや天帝は、その部下を使って世界中にアンテナを張り回し、人間の善事悪事をキャッチして、それに相応する賞罰をあたえる。人間は寸時も油断できないのである。これが中国で普遍的に行われる道教の実践道徳の根底に横たわる思想なのである。(p161)
今から千四百年も前の隋代に最初に科挙を行った(p181)
大臣大将やその他高官の子どもは、父の威光によってある種の低い官につく当然の権利を持っているので、別に科挙には応ぜずともいいのである。科挙はそういうつてのない低い階級の者のために開かれているのであって、そこへ貴族の子弟が割り込んでくるのは、ちょうど金持の学生がアルバイトに励むようなもので、貧乏人の仕事の領域を侵すことになるのだ。(p183)
この新興富民階級は争って学問に志すにつれて、彼らを顧客として出版業が大いに隆盛になった。仏教、儒教の経典はもちろんのこと、同時代人の文集、語録、時事評論の文までが出版され、政府でも官報を印刷して配布した。いわばマス・コミュニケーションの時代に入りかけたのである。その結果学問が広大な範囲にまで行きわたることになり、科挙に対する受験生はほとんど全国の各地から集まってくるようになった。政府は自由にこれらの中から優秀な者を選抜して、官僚予備軍を形成することができたのである。(p186)

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