面白さのデリケートさ

悲しさや腹立たしさや嬉しさは、なぜそう感じたのか説明したらなくなったりすることはないし誰かとその気持ちを共有することもできるのに、面白かったことはなぜ面白いのか説明すると面白くなくなったり面白さが共有できないことがバンバンありませんか。わたしはバンバンあります。

面白いこと自体はわりとたくさんあるんだけど、面白さを誰かと共有しようと思ったら、面白く思うためにいくつかあらかじめ知ってないといけないことがあることが少なくないです。その前提知識を持っている人がいればいいけど、もしいなければ、またはどうしても特定の人と面白さを共有したいけど前提知識が足りない場合は、わたしみたいな口下手で不精者は説明していくうちにどんどん面白くなくなっていって、聞いてる相手はだいたいが「ふーん」っていう反応に終わります。聞いてくれた相手に謝りたい。ここまで読んでくれた人にも謝りたくなってきた。

それで、人間は話せばわかる的な、人類皆兄弟的な、同じ種類の動物的な、なんかそういう雰囲気がある割にわたしはわたしが感じた面白さを誰ともうまく共有できないことの方が多いので、ひとりで楽しめる技術を身に付ける方がよいのではと思いました。

いちばん満足度が高そうなのは、経験を常に共にしている体と会話することだと思ったけど、ちょっと具体的にどんな方法で会話するかが難しい。精神が体を支配してるとは全然考えてなくて、むしろ神聖ローマ帝国みたいなかんじ?で体のことは考えているんだけど、帝国内に皇帝が理解できる公用語がないっていうか…皇帝がバカっていうか…。いつか足の小指と会話したりしたい。めっちゃ文句言われるかもしれない。毎年霜焼けだし。

そういう意味では経験から同一であることを強いられるものから得る面白さはかなり期待できて、小説とか映画とか音楽とか絵画とかテレビ番組とか、面白さを共有したい人がいるならそういう同じものを経験すればいい。もちろん個々の経験も得られる面白さに違いを生むけど、それでも共有できる幅は広いような気がします。あっ、デートとかそういうことなんじゃないの。

他人との共有が無理そうな面白さは共有しようとして面白くなくなるくらいなら共有しなければいいんだけど、ひとりで面白そうにしてると怪しい場合があるのがネックなんですよね。知り合いに見られてなにが面白いのか聞かれたら説明することになって面白くなくなる危険もある。かといって、面白いことに対して面白くなさそうにしてると本当に面白くなくなることもある。


で、具体的な例は一個も出さないからあんまり本気で考えてる話じゃないし、結局なにもいい方法は思いつかないんだけど…なんで面白さばっかりこんなにデリケートなんだろうなっていうアレです。他の気持ちは無遠慮に説明できるのに。
あとみんながこんなふうに面白さに対して感じてて、人には言えない面白さに震えているなら、ミクロコスモス!ってかんじ。このひともあのひとも人には言えない面白さに震えている…!